病と私(教員2年目の躁うつ日記)

双極性障害と一緒に暮らす大学生→教員()の日記とか思ったこと。

過去は『良く』見えるのではない

 

この記事は叙情的に思ったことを

つらつら書きます。

 

 

 

過去は『良く』見えるのではなく、

『愛おしく』思える

 

 

というのが正しい気がします。

 

 

「あの頃はよかったなあ。」じゃない。

 

「人間は都合の悪い記憶は消すから、

過去が良く見えてしまう」

ってよく言われるけど

 

よくなかったことも、ちゃんと思い出せる。

 

恥ずかしかったこと、

苦しかったこと、

誰にも言えなかったこと、

怖かったこと、

傷ついたこと、

周りに溶け込んでいるようで、

溶け込め切れない違和感…

 

 

中高生の頃を思い出そうとするとき、

私はいっつも、涙が出ます。

 

これといった出来事は思い出せなくて、

ただただ部分部分の、

その時は大して感情も動いていないような、

いわゆる日常が思い出されるんです。

 

友達との会話も覚えてない。

日常の繰り返しが思い出される。

 

 

女子更衣室で2クラス分の女子が

一緒になった時の独特な雰囲気

 

埃くさい図書館と受験期の

お昼休みに一緒に過ごした友達

 

顔をあげて歩くのが苦手だった廊下

 

寒い日も暑い日もいつも真っ暗になってから

一緒にバスで帰った2人の友達

一緒に寄ったスーパー

 

音楽室までの階段

譜面台や楽器を持って移動する煩わしさ

 

ゼッケンを忘れた時の恥ずかしさと

体育教官室に行く億劫さ

 

仮病で早退する時の優越感や幸福感

 

近づきすぎると

自分から距離を置いてしまう不安定さ

 

寒い時は極寒、暑い時は酷暑のくせに

なぜか集会は武道場だったこと

 

軍隊チックな伝統的な体操、応援歌

 

洋書を読んでいた英語の先生

 

引きこもりだった国語の先生

 

弟をいじってくる数学の先生

 

蜂の侵入で中断になる授業

 

 

 

当時はその繰り返しにうんざりしていて、

早く次のステージに行きたくて、

そこから抜け出したくて、

変な足掻きをしたりしなかったりしてたけど

 

 

今になって

それらがどれだけ美しく、貴重だったか、

(この二言では表しきれないけど)

思い知らされるんです。

 

 

後悔はひとつもないし、戻りたいわけでもない。

 

でも

傷モノであることが、

誰とも共有できない一点モノであることが、

とても切なく、そして愛おしく感じるんです。

 

 

何か、自分だけの大切でどうしようもないもの。

 

完璧な過去や満足する過去なんてひとつもない。

全てが私から見えたもので、私が感じたこと。

その場に誰といたとしても、共有することはない。

そして2度と戻ることはできない不可逆性。

 

 

それらが愛おしすぎて本当に泣けてくる。

誰かのことを大事に思いすぎて泣くのに近い。

(頻度で言えば圧倒的に過去に対してだけど)

 

 

でも上記の特徴(誰とも共有できない、不可逆性など)

は「過去」だけでなく「現在」にも当てはまる気がするのに、

どうして現在に対しては愛おしさを感じられないのかが疑問です。

(現在を蔑ろにしてるというわけではなく)

 

 

あ、でも大好きな人といる時とか

大好きな人とすごく楽しいことしてる時に

ふと

「時が経つにつれて今この瞬間の記憶は薄くなって、

この人の表情や声色や匂い、背景、

どんどん鮮明に思い出せなくなって、

細部が思い出せなくなって、

いつか忘れてしまう。」

って思うと途端に切なくなって泣きたくなります。

 

 

んーでも感覚的な話になるけど

「現在」って自分が中心にいるからなのかな

「今感じていること」「今していること」

に注意を払うので精一杯で

「あの時感じたこと」「あの時してたこと」

になると少し中心から切り離して見れるというか…

俯瞰的になるというか…

大好きな人といる時の例も、

自分を一瞬その場「現在」から切り離して

忘れてしまう「未来」に思いを馳せてる感じ

 

 

遠くから眺めた時に愛おしくなるのかなあ

 

 

中高生だけじゃなくて、

浪人の時を思い出す時も同じ気持ちになるし、

おそらく大学を卒業して少し経ったら、

大学生の時の記憶が愛おしくて泣いちゃうんだろうな

 

いつまで続くんだろうこれは。