『暇と退屈の倫理学』國分功一郎
パスカルの「気晴らし」の使い方に違和感がある
人間が部屋でじっとしていられないのは、遊牧生活から定住生活に移ったことによって余った能力があってそれに退屈するために「気晴らし」を求めるというのはパスカルが言ってる「気晴らし」の本質から少しズレてる気がする(もちろん國分先生は分かった上で述べているとは思うけど)
読めば読むほど面白いし、
ハイデガーへの理解が深まる
ただ、哲学に親しみがない人には少し難解な気もする
1月②1/14 17:00のつぶやきについて。
参照(読み飛ばし可)
寝る前に考えてたことメモ
前置き:「成功」という言葉が表すものを正確に捉えられているわけでも提示できるわけでもないけど、自分の中で、人生は「成功」しなければならない、「勝ち組」でなければならないと思っていてそれに苦しんでいる節があるので使います
徳が高いから「成功」するのではなくて
「成功」したから徳が高いと認定される
能力が高いから「成功」するのではなくて
「成功」したから能力が高いと認定される
高い低いは全て相対で絶対ではない
「成功」は自分で掴めない
能力を高めること、徳の高い人間になること、自分で自分を変えることは基本的にできない
人間は受け取ることしかできない。ただ自分に向かってくるものを。
その中で「成功」が
たまたま、偶然(ここが大事なのだが)
向かってきて受け取れた場合、
その人自身の
努力や経緯
能力の高さ
立派な人格
が崇められるだけ。
自分で手繰り寄せたのでは、
そもそも「成功」をキャッチする能力があったのでは、
となるかもしれないけど、
自分の感覚だとそんなものは存在しないな
とふと思った。
そしてこの思考に至って少し心の安寧を得た。
勘違いされたくないのは、
何かを諦める理由を探してたどり着いたわけではないし、絶望的なものでもないということ。
現状の自分では「成功」を掴めない(ここの「成功」が捉えられてないくせにこの思考に縛られてるのがすごくおかしいんだけど)、変わらないといけない、もっともっと努力しないといけないと思って苦しくなるんだけど
変われない自分を責める必要はないし、
自分が変わるための努力なんて全くしなくていいな。
第二形式の退屈に置くことで、「成功」になりうるものも掴む余裕があるということなのかもしれない
「成功」を受け取れるのは、
第二形式の退屈の中にいて
何かの奴隷になることなく、
安定を得ている(余裕、受け取る余地)時だけ
だということ。
(0114のつぶやきでは、「成功」は努力や受け取る力や、個人の能力で得られるものではないって結論だった。)
人間の根本的退屈(これは個人的にはハイデガーの論より、パスカルの論寄りなのだが)を悲観することなかったなと。
大学での卒論以来、私は「人間」に生まれた時点で不幸だという哲学を持って1年過ごしたけど
そうでもないのかもしれない
人間であるがゆえに環世界を簡単に移動できてしまう、そして多くの刺激には耐えられないから人間はまたも簡単に新たな環世界に慣れてしまう
そうすること(慣れ)でパスカルがいう、「人間は部屋でじっとしていられない」ということがまた起こる
でもこれは悲しいことではない、パスカルの「永遠の悲惨」ではないのかもしれない。
慣れ、退屈、は人間の生を楽しむためにある。いろいろなものを受け取るためにある。
だからいずれ訪れる「永遠の悲惨」を見つめ続けなくても、気晴らしは「永遠の悲惨」から自分の思考を逸らすための空虚なものだと決めつけなくてもいいのかもしれない。
※パスカルの「永遠の悲惨」は死(と私は解釈しています。いや確実にそう。)
今回、真に喜びだったのは
悲観していたものが和らいだとかではなく、
『暇と退屈の倫理学』で國分先生が言ってることを「なるほど。」と理解したと同時に体験できたということ。
訓練を積んだ者しか味わえない「楽しさ」を享受できたこと。
退屈万歳。
パスカルについて学んだおかげで、普段の気づきをここに残しておいたおかげで。訓練と言えるほどの訓練じゃないかもしれないけど、私にとっては十分。今回の経験もまた何かを楽しむ際の能力となっていると思う。だからまた興奮も残しておく。
幸せだ。鳥肌がたつ。
他人からの評価で得る喜びよりずっとずっと大きい。他人からの評価は曖昧で苦手だけどこれは確実に自分だけのものだ。嬉しいな。確実なもの。
そして卒論ほどがっつりやり込んだとかではないけど、去年の今頃、卒論研究で新しい知見を得て衝撃と喜びと悲しみに浸ったことを思い出すと、今年もこういう、似たような「時」がきて本当に幸せに思う。個人でもある程度の研究はできるのかもしれない。研究とまでは呼べなくても、なんか幸せなこと。
とても個人的な話だが、
パスカルの論の方が美しいとは思っている。